二宮和也さん主演の映画【ラーゲリより愛をこめて】が2022年12月9日に公開されます。
第二次世界大戦下、シベリアの強制収容所ラーゲリで死と隣り合わせの日々を送りつつも懸命に生きる事への希望を捨てずに生きた男の半生をもとに描かれた映画です。
戦後、シベリアからの帰還者によって遺族の元へ届けられた6通の遺書がストーリーを動かしていきます。
この【ラーゲリより愛をこめて】には元となる原作小説があり、さらに実在する人物の人生がモデルとなってえがかれているのですよ。
そこでこの記事では映画【ラーゲリより愛をこめて】のモデルとなった人物は誰なのか、そして原作となった小説をご紹介していきます!
ラーゲリより愛をこめては実話!?モデルとなった人物紹介
2022年12月9日公開の映画【ラーゲリより愛をこめて】には実在するモデルとなった人物がいます。
この映画には元となる小説があり、1993年にはフジテレビ系列で終戦48年特別企画としてドラマ化もされています。
そんな映画【ラーゲリより愛をこめて】は第二次世界大戦かシベリアの強制収容所ラーゲリに収容され、現地で亡くなった山本幡男さんが書き記した遺書がもととなって描かれています。
山本幡男さんが残した遺書は、終戦後にシベリア帰還者によって日本の家族の元へ届けられました。
山本幡男のwiki風プロフィール
名前:山本幡男(やまもとはたお)
生年月日:1908年(明治41年)9月10日生まれ
享年:1954年(昭和29年)8月10日(死因・・咽頭がん性肉腫)
出身地:島根県隠岐郡西ノ島町
出身校:東京外国語大学(中退)
山本幡男さんは第二次世界大戦末期の1944年に召集令状により入営、東京外語大でロシア語を専攻していてロシア語にたけていたこともあり.1945年ロシアのハルピン特務機関に配属されました。
迎えた終戦により、ソ連に抑留されスヴェルドロフスク収容所に送られました。
スヴェルドロフスク州、日本から遠く離れていますね・・
こんな遠く離れた地で、特務機関任期中にソ連の新聞などを翻訳していた活動がスパイ行為としてみなされた山本幡男さんは戦犯としてソ連国内法により重労働25年の刑を下されます。
この刑は非常に重罪で軍の大将、司令官に匹敵するといいます。
これほどの重罪が科せられたのには様々な説がありますがこれ以降、冬には零下数十度にもなる厳しい気候の中粗末な食事や劣悪な環境の下、重労働を強いられていく事になります。
山本幡男の人物像
絶望の中でも日本へ生きて帰ることへの希望を捨てず、仲間を励まし続けた山本幡男さん。
その人物像がわかる記事を紹介していきます。
収容所という地獄の中に、山本さんは「文化の力」を持ち込み、その力と自らの「人格の力」によって、絶望を希望に変えたのである。
(中略)
山本さんがシベリアの収容所で成した人知れぬ偉業は、「文化の力」の素晴らしさを私たちに改めて教えてくれる。
私たちも逆境に置かれ、「もうだめだ」と思うことがたびたびあります。山本さんは、いつも「人生っていうのは生きているだけで楽しいことがあるんだよ」ってことを言うんですね。私は読んでいて、とても力づけてもらえた。収容所は悲惨なのに、山本さんという人物のいるところにだけはボーッと明かりが灯っている。そして、私たちはどんなに辛いときがあっても、生きるんだ、しかも人間らしく生きていけるのだという希望を与えてくれる。そこがすばらしいと思うのです。
収容所という、人間性が閉ざされる逆境の中でも、山本さんは「どんなにつらいことがあっても、生きて帰るという希望を持ちつづけることがたいせつなんだ。死にたいと思ったらおしまいなんだ」と教えてくれました。私は、逆境を耐え抜く力を山本さんから学ばせてもらいました。— 「絶望を希望に変える『文化の力』」、辺見 2009, p. 146より引用山本さんは不思議な人だったな。体も弱く、釘一本打てないような不器用な人なのに、よく収容所を転々として生きのびてきたと思う。不思議な強さと甘さをもった人でした。— 「ろんろんという海也の音」、辺見 1990, p. 342より引用
どんなにつらいことがあっても、シベリアでの日々を思えば耐えられました。それもまた、山本さんが私たちにくれた「力」なのです。— 「絶望を希望に変える『文化の力』」、辺見 2009, p. 146より引用
山本幡男の遺書とは
遺書というと手紙が届けられた、と感じる方も多いかもしれませんが、収容所では日本語を書き残すことはスパイ行為として不可能だったといいます。
ではどのようにして山本の遺書は遺族の下へ届けられたのでしょうか。
ロシアの地で病に倒れた山本。
捕虜としては異例の収容所外の病院へ入院することができましたが、日本へ帰ることなくロシアで永眠します。
そこで山本を慕う人々の間で恩返しをしようと、なんとか彼の遺書を日本の遺族の下へ届けようと考えます。
ですが、日本語の書籍を日本へ持ち帰るなど不可能な時代。
そこで山本と親しくしていた4人で遺書をすべて暗記し、なんとか山本の遺書を守り抜きます。
1955年 ラーゲリでの非人道的な扱いをモスクワ政府に訴えるストライキ【ハバロフスク事件】が起きます。
ストライキ自体は100日ほどで制圧されてしまいますが、ラーゲリでの悲惨な状況を訴え続けた日本人代表たちのおかげで労働条件の緩和、医療体制の改善、スパイ工作の廃止などがかなえられました。
1956年には日ソ共同宣言、通商議定書への調印が行われ同12月、最後の長期抑留者1025人が日本へと帰還しました。
翌1957年1月に1通目の遺書が山村昌夫の手で妻である山本モミジの下へ届けられました。
山本を慕う仲間たちは、帰国への希望を与えてくれた彼への恩返しとして、彼の遺書を日本の遺族のもとへ届けることを熱望した[38]。しかし収容所では、日本語を書き残すことはスパイ容疑と見なされており、ほぼ不可能であった。帰国時に隠し持っていても所持品検査で発見されれば収容所へ逆戻りとなり、帰国の希望は完全に断たれてしまう[44]。事実、帰国の機会を得たにも関わらず、隠し持っていた日本語の書物を没収されて収容所に逆戻りした者や[45]、新たに10年の刑が加重された者[46]、重労働25年の刑を受けた者もいた[47]。山本自身もそれを理解していたと見えて、全文を暗記して日本の家族のもとに伝えるよう、仲間たち宛てに遺書に書き添えられていた[45][48]。
告別式の後、アムール句会の出席者を始めとして、山本と親しい者、信頼のおける者、体力のある者、記憶力に長ける者、計6人が分担して、遺書を暗記することになった[46][49]。一同はそれぞれ、遺書の一部を紙片に書き写して隠し持ち、作業中に監視の目を盗みつつその文面を暗唱して頭に叩きこむ方法をとった[50][51]。作業後も貴重な睡眠時間を削って暗記に費やし、その記憶を遺書の写しと照合しながら、山本からの依頼通り、一字一句洩らさない完璧な暗記を目指した[50][52]。帰国は何年先、何十年先になるかもわからない、気の遠くなる作業であった
Wikipediaより引用
ラーゲリより愛をこめての原作紹介
映画【ラーゲリより愛をこめて】には原作があります。
コメント
記事の中で、山本旗男さんの妻の名前を「モミジ」さんと書かれていますが
正しくは「モジミ」さんのようです。